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白衣民族濊ワイ族 日本統治下

 

韓国朝鮮 日本との併合を望む

 
朴 栄喆(パク ヨンチョル)統治時代 道知事の言

Susanoo 朴栄喆「五十年の回顧」より抜粋 
『公平無私なる観察を下すときは、いくら日本の朝鮮統治に反対しても善政は善政に相違なく、如何に伊藤(博文)公を毛嫌いしても公の真意には感謝せざるを得ない、とはある評者の言であった。究竟するに韓国を亡ぼしたのは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。また当時の李完用始め自余の責任者でもなければ之を攻撃するの必要なし。詮ずるところ、その責任は二千万同胞にあるのである。
思うに韓国自体が独立の要素を欠き、独力独行することが出来なかったためであって、古今問わず韓国国民全体が無気無力為す事なかりしの致すところであって、まことに自ら招ける禍であると云わねばならぬ。
日露戦後、日本は前例に鑑み(日清戦争後の処理を指す)韓国の保護啓発に努力したるも韓国の上下は少しも日本の誠意を理解せず陰謀を策し、詭謀を企て陰に陽に敵対行動を取ったので日本はついに止むを得ず最後の手段として日韓併合を断行するに至った。・・・今日あるは自業自得であると云わねばならぬ』

 
韓国朝鮮との併合を反対する日本人は初代韓国統監の伊藤博文公や慶応義塾大学創始者である福沢諭吉等、大勢居たが伊藤博文公暗殺事件の翌年明治43(1910)年 日韓併合成立、エベンキ・ワイ族が祖のワイ族韓国朝鮮人は新日本人となった。

口髭 くちひげ
韓国朝鮮の全国民が日本統治時代の朝鮮総督(日本人)の髭を卑しむ

「白衣民族濊ワイ族 」 ジョルジュ・ビゴー風刺画(1887年) 朝鮮魚を狙う日本と中国とロシアの三国  どの国が良いか窺う朝鮮魚。 日本を貶める現韓国人の言 Koreaをねらっている日本人などと狂う
「白衣民族濊ワイ族 」 世界を欺く濊ワイ族 安重根(안중근 アン・ジュングン)義士記念碑  韓国京畿道富川市 市は達美区中洞にある安重根公園で安義士義挙第102周年記念式と記念造形物除幕式を行った。 なぜ韓国は朝鮮の日本併合には反対であった伊藤博文公暗殺者・安重根を英雄扱いするのか ただただ「恨 ハン」か「反日種族主義」か。 両班の安重根は日韓併合を最も速めた立役者 両班達は併合を望んだのか    
「白衣民族濊ワイ族 」 伊藤博文公碑 伊藤公記念公園 山口県  初代内閣総理大臣及び初代韓国統監 明治42(1909)年10月26日 ハルビン駅にて安重根に暗殺される。
「白衣民族濊ワイ族 」 日韓併合を推し進めた最悪の立役者 安重根(あんじゅうこん アン・ジュングン)  安重根は伊藤公暗殺の翌年1910年処刑にて人生を終える 現在韓国では子供たちにテロリスト安重根を英雄として教え、随所に像を建て称えている。 何故日韓併合反対の伊藤公暗殺者を・・・韓国朝鮮人の性根 「恨 ハン」そのもの。

白衣民族濊ワイ族 日本統治下

 

新日本人の為に

日韓併合後に徐々に禁止させた朝鮮文化(一部)
・凌遅刑(りょうちけい) 
 歴代中国王朝が科した刑罰
 韓国朝鮮での言葉「凌遅処斬 능지처
 참」「凌遅処死 능지처사」
 生きている人間の肉を少しずつ切り取
 り、長時間にわたって苦しみを与えな
 がら殺す。
・シパジ「種受け」
 後継ぎが生れない両班の家の主人と性
 交し、跡継ぎの男の子を生み手渡す女
 性の仕事。
・嘗糞(しょうふん)
 人間の大便を舐めて体調を判断する診
 断法
・試し腹(ためしばら)
 血縁の近い兄や叔父に種男とし娘を犯
 させ妊娠した状態で輿入れさせる。
・指詰供養
 朝鮮の諺「両親の病気に指を詰める」
 両親の病気が治らない時、息子が指を
 切り、出てきた血を供養する。
・乳出しチョゴリ
 結婚し、男児が生まれた女性のみ、胸
 を出していた。
・病身舞(ビョンシンチュム)
 慶尚南道密陽に伝わる伝統芸能
 ハンセン病患者、小人、身体障害者、
 せむしなど「身体障害者・病人達を病
 身として表現し演じる」。

全ての韓国朝鮮人が歴史を捏造・歪曲し「植民地被害に対する賠償を」などと嘘偽りで狂う。

かの国 濊ワイ族
「日本に弾圧されたため、崇高な独立運動 3ー1運動 を行なった」等と自分のした事を正当化するために、歴史を書き換える。

福沢諭吉

慶応義塾大学創始者である福沢諭吉が清国の従属国だった朝鮮が独立を果たし近代化するためには、「自分たちは朝鮮民族である」という自覚を持つことが必要だと考え、朝鮮民族であることを啓蒙するためには、朝鮮民族の文字が必要だと唱え、漢字ハングル混合文を考案し、私費でハングル活字を作った。

「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  新日本人(朝鮮人)の子供達  皆、清潔そうな服を着たお行儀の良い小学生達。 併合前の通学は両班の子供だけで民間人は学校には入ることは出来なかった。併合前の小学校の数100校 から併合で小学校5,213校建設、生徒数2,389,135人に大激変。 教育内容ではハングルを整備し体系化させ、漢字、日本語と共に普及させた 。 
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  朝鮮語の教科書「普通学校朝鮮語読本」 併合当時の教科書  併合下では半島全土の子供達にハングルを教えた。 李氏朝鮮時代には一般人を教育する機関はなく、殆どの朝鮮人が読み書きができず、また朝鮮では漢字が重視されハングルは軽視され教育されることはなかったため、ハングルを必修科目とした日本の教育により、朝鮮民衆にハングルが広まった。 
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  朝鮮語の教科書「普通学校朝鮮語読本」 左ページ上部は日本の片仮名文字、下部が朝鮮のハングル文字。 教育は日中は子供達に、夜間は大人たちにハングルを教えた。結果、朝鮮人の識字率が3-8%→80%に大様変わりした。
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  朝鮮語の教科書「普通学校朝鮮語読本」  大正12年(1923年 )朝鮮総督府が全国に交付。

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日韓併合 

大清皇帝功徳碑 評価  崔基鎬

歴史再検証 日韓併合韓民族を救った「日帝36年」の真実  祥伝社黄金文庫より

「1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。国号が清国と対等な国として大韓帝国に改められ、第26代の高宗王が、中華圏における中国皇帝の臣下を意味する国王の称号を廃して、はじめて皇帝を称した。大清皇帝功徳碑は、1895年に、あまりにも恥辱であるとして、川の中に投げ込まれた。もっとも、この碑は韓日併合後に、川底から掘り出されて、史碑として同じ場所に建立された。1897年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟32号に指定されている。しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。日本にはその歴史を通じて、大清皇帝功徳碑も迎恩門もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった」と崔基鎬は評した。

「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  京城(ソウル)朝鮮総督府 庁舎  背景は禿山 日本は朝鮮半島全土の禿山に併合の36年間で総督府五億九千万本、民間人4億本を植林した。 市中には日本の桜ソメイヨシノをたくさん植樹したが1945年に日本から離脱後、韓国大統領が全てのソメイヨシノを日帝残梓として伐採した。 
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  京城(ソウル)独立門 漢城の西大門(敦義門)のすぐ外  日清(日本と現中国)戦争で日本が勝利 日本と清の下関条約(1895年)により李氏朝鮮は清の冊封体制から離脱、1897年大韓帝国が成立し日本の保護国となる。1896年朝鮮の独立協会は迎恩門を取り壊し1897年に清から独立の記念として新たに独立門を同じ場所に建てた。 
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  京城(ソウル) 日本統治下、ソウル大通りの様子 掘立小屋から変わる。
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  日韓併合後の崇禮門(南大門)  電気が通り街路灯の付いた段差のある歩道も出来た。 路面電車が走りトラックが走り日本と同じ交番(門前左側)も出来た。 背後の禿山には植林も行った。  韓国朝鮮伝統の「掘立小屋」は全く見あたらない。  

白衣民族濊ワイ族 日本統治下

 

日清講和条約(下関条約)


元寇(げんこう)の役・日清日露戦争等全ての戦いを促した朝鮮人

日清講和条約(にっしんこうわじょうやく) 

(第一条)清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。  

 

朝鮮は紀元前二世紀頃、衛氏朝鮮が前漢(現中国)に冊封されて以来、1895年に日清戦争で日本が勝利し下関条約(しものせきじょうやく)によって丙子胡乱の勝者清(現中国)国に敗者の朝鮮を独立国と認めさせ解放するまで、ほぼニ千年余に渡り一貫して古代中国やモンゴル帝国の冊封国(従属国)であった。

 

日本統治下 朝鮮半島の農業

日本統治下の極貧の朝鮮農民を豊かにする為、米作りの耕地整理をし耕作地に最適の稲の種子を用い、農作業その他全て日本式に変えた。 結果、反当たり収量 0.49石 →1.49(3倍)、石高(米の生産量)約1千万石 →2千万石(1930)に激変、農民の生活が大きく変わった。

朴泰赫
日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。 

「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  京城(ソウル) 1910年頃 当初の南大門(ナムデムン)駅 韓国最初の鉄道である京仁鉄道は日本の竹内綱(吉田茂 元首相の実父)が敷設する。 1900年11月12日 仁川と漢城を結ぶ路線全線営業開始、開通式を行った。最初は木造の平屋の小さな駅舎で、名前は京城駅で始まる。
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  京城(ソウル)京城駅  明るいレンガの色に映える駅舎 大正14年(1925)にルネッサンス風の駅舎に変わる。設計は日本の高名な建築家辰野金吾に学んだ塚本靖氏で、当時 辰野金吾設計の東京駅に次ぐ国内第2の規模の駅舎 現在韓国朝鮮で珍しく史跡として保存する。  
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  平壌(ピョンヤン)平壌府営業の市内電車  運賃は市内一律で5銭。 朝鮮半島の鉄道敷設は「日本資本主義の父」ともいわれる実業家渋沢栄一の働きが絶大。 しかしながら、現在の韓国朝鮮人は「韓国の鉄道は日本より早く敷設した、やはり韓国は凄い、日本は云々」と日本をあざけり自画自賛している。 史実として日本統治で鉄道3,827kmを敷設。
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  1930年頃の田植え風景  上:朝鮮式稲作、下:日本式水稲稲作  朝鮮半島の農民の名は「火田民 かでんみん」 火田民とは焼畑農業を行なう民 朝鮮半島の山々が禿山の理由が古来より朝鮮農民が木々を燃やし灰を肥料にした事が原因。 総督府は火田民に農業用地を与え、焼畑農業を禁止とした。 日本統治により耕地面積が246万町歩から449万町歩 水田面積が84万町歩から162万町歩に変わった。   

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伊藤博文と日韓併合
 


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フレデリック・アーサー・マッケンジー

 

カナダ人ジャーナリストのフレデリック・マッケンジーがロンドン・デリーメール誌に寄せた記事によると「伊藤博文公は、周知のように日本の最も偉大かつ著名な政治家である。彼の韓国赴任は大変な自己犠牲であった。伊藤公が韓国改善のプランを打ち明けたとき、私の心は躍った。そこには改革、公正、斡旋があった。李氏朝鮮が犯したあらゆる誤りがそこでは救済されるはずであった。公は、『私は、自分が韓国国民と日本国民の間に立って、両者の間に正義の行われるようにするべき立場に立っていると思う』と言明したのである」当時韓国に滞在したラッド宣教師は、「韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んじる進歩的であり、円満である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明時代に導かれ、未開時代から文明世界に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から逃れ、彼らの生命、財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において、3年間に2倍の進歩を遂げた」と述べ、同じくハリス宣教師は、「私の見るところをもってすると、伊藤公の統治は、最大限の賞賛に値するべきものであり、大満足しております。韓国国民は、今ようやく彼をもって自分たちの友人であることを知って、これを事実の上に現し始めました。過去3年間における韓国の進歩の大きいことは、実に私をして総監統治の最も熱心なる支持者であることを告白せしめます。すべての宣教師、その他の韓国における文明開発の義務を知るものは、著しく伊藤公の政治を支持しなければならないと思います」とコメントした。 

「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  韓国朝鮮伝統家屋である草葺き屋根の掘立小屋が見当たらない釜山 草梁市全景  路上には路面電車が走り歩道には街路樹が茂り空にはニ機の複葉機が飛んでる。  広くて真っ直ぐな道路、垂直な電柱・煙突、かわら屋根の家並。 日本内地と変わらぬ美しい町並みに大様変わりした釜山。    
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  朝鮮民主主義人民共和国の北東部咸鏡(かんきょう)北道東部にある不凍港 日本海に面する港湾都市 羅津 らしん ラジン。 日本統治により大陸への最短距離の地として築港を行ない漁村を都市に替えた。  
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  水豊ダム  昭和12年鴨緑江に建設した出力世界二位の水力発電所で、朝鮮及び満州の電力をまかなった。現在このダムは中朝国境に位置し、今も北朝鮮の貴重なエネルギー源となっている。 建設費は当時の金額で2億3700万円で全て日本の資金を使った。
 「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  興南(フンナム)新興工業都市 1942年撮影  併合後32年 朝鮮窒素肥料・日本マグネシウム・朝鮮鉱業などの工場が次々に進出した。  背後の禿山が緑豊かになるには、相当な年月がかかる。  

白衣民族濊ワイ族 日本統治下

 

「歴史を偽造する韓国」 中川八洋著
(2002/4) 徳間書店

日本型「司法」への中傷と誹謗
(中略)
しかし、当時の実態をひたすら歪曲する研究者があとをたたない。例えば、朝鮮総督府が定め1912年の朝鮮笞刑令が「朝鮮人に限り之を適用す」(第13条)であることをもって、朝鮮人と日本人とを刑罰上で差別するためにこの笞刑令を定めたとか、異民族弾圧法であったとか、あらん限りの中傷を加える。が、笞刑は、李朝の太祖李成桂以来、数百年間つづいた伝統的な刑罰であり、それは「旧韓国」の『刑法大全』(1905年〉にも定められている。しかも『刑法大全』は杖刑を廃止し、そのぶん笞刑を広く適用する定めとしている。

朝鮮が日本国に併合された以上、日本国の刑法が等しく適用されねばならず、『刑法大全』は無効となった。だから笞刑もなくすべきであったというのであれば筋が通る。しかし、日本は3ヶ月以下の懲役や百円以下の罰金となる、朝鮮の貧民の犯罪にいたく同情して、つまり例えば数日間であれ刑務所に収監されれば家族が飢餓に瀕する、あるいは数円ですら罰金を払うとなれば僅かな財産のすべてを失う事態を考えて、朝鮮の伝統的な笞刑をもって罰としたのである。懲役や罰金を見逃す便法であった。このため、朝鮮笞刑令第4条は、「罰金1円を笞1、懲役1日を笞1」に換算する旨を明記した。当時の朝鮮の最も貧しい階層では、家族4名、5円あれば1ヶ月は食べられた。それほど高額な1円が笞1で済むのである。すなわち、朝鮮笞刑令とは「大岡裁き」で、刑罰を温情的に軽滅する定めであった。また、「笞刑令施行規則」(1912年)の第1条によって、笞刑執行前に医師が受刑者の健康を診断することが定め、笞を小さくし、執行中に受刑者に飲水を与えるように定めた。笞刑令第5条をもって、女性や16歳未満の男児への笞刑を禁止した。それ以前の朝鮮では姦通罪の女性に対して苛酷な笞刑を行っていた。また、笞に関して朝鮮のは長さは3尺5寸(106cm)厚みは2分7厘(8.2mm)であったが日本統治により長さは1尺8寸(55cm)厚みは2分5厘(7.6mm)と短く細くなった(「施行規則第11条」)。痛みを、それ以前の朝鮮笞刑よりも数分の一に下げるためであった。臀部とはいえできるだけ肉体に傷をつけないように配慮したのである。日本の笞刑と、それまでの朝鮮の笞刑は考え方においても厳しさにおいても全く似て非なるものであった。しかし、この笞刑令をもって、「朝鮮民衆の独立運動に対する抑圧」の法律であったなどと、荒唐無稽な珍解釈をなす研究者が多い。あるいは、「反日」的言動をなした者を弾圧するために、この笞刑が実施された、などという創り話すら流布している。(朝鮮の伝統であった笞刑制度は1920年に廃止された

「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  新日本人(朝鮮人)教育制度改革  京城帝国大学予科 京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年(大正13年)に日本としては6番目の帝国大学として、日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された朝鮮唯一の旧制大学。 大学の略称は城大(じょうだい)。 京城帝大は大阪帝大、名古屋帝大よりも先に建てた。
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  新日本人(朝鮮人)女子生徒達  京城(ソウル)淑明女子高等普通学校 こちらの学校は朝鮮人女子に中学教育を施す私立9校の内の1校。 休憩時間かと思われるグラウンドで静かにくつろぐ女子生徒達。  
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  新日本人(朝鮮人)女子生徒達  平壌(ピョンヤン)日本統治27年後 1937年 日本式の遠足 後方に大同江が見える。 少女達の手にはお弁当。 皆 清潔そうな服装と素敵な笑顔でとても楽しそう。 
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  新日本人(朝鮮人)男子生徒達  スキーの授業 みな楽しそう。  この授業風景は日本内地の雪国の体育授業と全く同じ。

白衣民族濊ワイ族 日本統治下

 

大日本帝国 国民のこころ

統治方法
列強各国:搾取型植民地支配
日本統治:日本国内と同じと考える内地
     延長主義

日本は植民地支配ではなく同国の日本統治とした

朝鮮人の約95%は文字が読めなかったので昼間は子供に、夜は仕事を終えた大人達にハングル及び文字を教えた。

学校・鉄道・道路・橋・病院・郵便制度・消防署・警察・裁判所・電話局・ダム発電所・築港 他に、植林植樹・近代的な農業技術・工業技術・漁業・海苔の養殖等、持っている技術や知識及び知恵等、ありとあやゆるものを教え作った。
結果、統治前の韓国朝鮮は世界で最も貧しい糞尿に塗れた最貧国であったが、清潔な美しい国に大様変わりした。

日本統治下での諸制度の廃止及び禁止事項(一部)
〇制度の廃止
・奴婢の解放 (人口の30%)
・両班の特権廃止
・女性の解放(名前を奨め、再婚を許
 可)
・衣服の自由化、瓦屋根や二階建て以上
 の家屋の制限を撤廃
〇因習の廃止
・人身売買の禁止
・宦官(睾丸の腐割)の禁止
・纏足(てんそく)の禁止
・少女を妓生とすることを禁止
・呪術的医療の禁止(朝鮮巫術の禁止)
身分制度廃止令は併合前だが、実際は併合後に実施

朝鮮総督府政策一覧
併合時(1910)~終戦時(1945)
・教育の普及 ほぼ皆無→小学校5,213
 校建設、生徒数2,389,135人
・京城帝国大学創設(1924)、旧ソウル
 師範学校(現ソウル大学)、梨花女
 子大学など1000校以上建設
・朝鮮国民に教育を実施し、就学率を
 61%まで高めた(1944)
・ハングルを整備し体系化させ、漢字、
 日本語と共に普及させた
・識字率 3-8%→80%
・人口 1,313万人→2,512万人
 (1944)
・平均寿命 24歳→56歳
・鉄道 3,827km敷設
・耕地面積 246万町歩→449万町歩
・水田面積 84万町歩→162万町歩
 (1928)
・石高(米の生産量) 約1千万石→2千
 万石(1930)
・反当たりの収量 0.49石→1.49石(3
 倍)
・植林 禿山に30年間で5億9千万本を植
 林

「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  日本人が朝鮮人に教え伝えた色鮮やかな和(日本)式 赤古里(チマチョゴリ)  日本統治により朝鮮半島に渡った日本女性が日本の染色技術と和装(着物)の色使い等を考慮し生地を作り縫製をし、新たに日本人になった朝鮮人に教えたチマチョゴリ。 しかし現在の韓国朝鮮人は古よりこの日本式のチマチョゴリを自国が使っていたなどと、白衣は無きものとする。
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  新日本人(朝鮮人)女性  何よりも清潔が一番 1935年日本統治時代 桜の花の下 赤古里(チマチョゴリ)姿の若い女性。 日本統治25年、毎日入浴等の日本の生活様式に朝鮮を変えた事により朝鮮女性も大変美しく清楚に大様変わりした。
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  新日本人(朝鮮人)少女  平安南道中和郡 1933年 大聖堂の建物の前で弟をおぶったまだあどけない笑顔を見せる少女。
「朝鮮半島大変貌」 日本統治下  日本統治30年後  朝鮮ホテル 1940年 ソウル 左端の女性は舞踏家・崔承喜(チェスンヒ) 李氏朝鮮時代の終わりまで朝鮮の女性は名前を持つことが出来なく、性の対象などの非常に悲惨な人生で終わっていた。 日本統治により全ての女性が名前を持つことが出来るようになる等全てが変わった。
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