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新日本人 日本統治下の朝鮮半島

 

大韓帝国(日本の保護国)から日韓併合(日本統治)へ

 

日本との併合を望んだ韓国朝鮮

 

漸く清の隷属の縛りから解かれ大韓帝国という独立国に大様変わりしたが、李氏朝鮮時代に特権を持っていた両班達は日本の望む政策をきらい合併を目論むロシアに媚びへつらい日本に恩を仇で返す所業をなした。しかし民衆達は当然日本との併合を望んだ。

 

 

 

「韓日合邦を要求する声明書」

 

1909年12月4日 一進会

日本は日清戦争で韓国を独立させてくれた。日露戦争でロシアに食べられる寸前の韓国を救ってくれた。それなのに韓国はこれを感謝しなかった。あの国に着き、この国に着き・・・結局は外交権を奪われる事になった。しかし、これは我々が自ら招いた事態である。丁未条約(第三次日韓協約)を締結する事になったのも、やはりハーグ事件を起こした我々に責任がある。  

 

 

伊藤博文公

日本の保護国であった大韓帝国の初代韓国統監を務めた伊藤博文公は国家破産状態の韓国の自立を望んで保護国で十分であると旧韓国との日韓併合には反対であった。大半の朝鮮人が併合を希望するも、当然の事ながら特権を持つ両班と儒者は反対した。  

韓国朝鮮との併合を反対する日本人は他に大勢居たが明治43(1910)年 日韓併合成立し、韓国朝鮮人は新日本人になる。

 

朴栄 (統治時代の道知事) の言

公平無私なる観察を下すときは、いくら日本の朝鮮統治に反対しても善政は善政に相違なく、如何に伊藤博文公を毛嫌いしても公の真意には感謝せざるを得ない、とはある評者の言であった。究意するに韓国を亡ぼしたのは日本でもなければ之を責めるにも当たらぬ。また当時の李完用始め自余の責任者でもなければ之を攻撃するの必要なし。

ジョルジュ・ビゴー風刺画(1887年) 朝鮮魚を狙う日本と中国とロシアの三国  どの国が良いか窺う朝鮮魚。
『奉迎』 御迎え奉る(たてまつる) 日韓併合を祝う朝鮮民族。  当時、一進会は大韓帝国で最大の政治結社
初代韓国統監 伊藤博文公   明治42(1909)年10月26日、ロシア蔵相ウラジミール・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合う為訪れたハルビン駅にて朝鮮人両班「安重根」に暗殺される。臨終の際、犯人が韓人である事を聞いて伊藤公は「馬鹿な奴が」と、ひとこと発せられたと言う。
伊藤博文公暗殺者 安重根(あんじゅうこん) 現在韓国では子供たちにテロリスト安重根を英雄として教え、随所に像を建てている。

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新日本人(韓国朝鮮人)

 

日韓併合

 

日韓併合条約

 

1910(明治43)年8月22日調印

 
第一条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を 完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す。
第二条 日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾し 且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す。
(以下省略)

 

大清皇帝功徳碑 評価  崔基鎬

歴史再検証 日韓併合韓民族を救った「日帝36年」の真実  祥伝社黄金文庫より

「1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。国号が清国と対等な国として大韓帝国に改められ、第26代の高宗王が、中華圏における中国皇帝の臣下を意味する国王の称号を廃して、はじめて皇帝を称した。大清皇帝功徳碑は、1895年に、あまりにも恥辱であるとして、川の中に投げ込まれた。もっとも、この碑は韓日併合後に、川底から掘り出されて、史碑として同じ場所に建立された。1897年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟32号に指定されている。しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。日本にはその歴史を通じて、大清皇帝功徳碑も迎恩門もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった」と崔基鎬は評した。

京城(ソウル)独立門 漢城の西大門(敦義門)のすぐ外  日清(日本と現中国)戦争で日本が勝利 日本と清の下関条約(1895年)により李氏朝鮮は清の冊封体制から離脱、1897年大韓帝国が成立し日本の保護国となる。1896年朝鮮の独立協会は迎恩門を取り壊し1897年に清から独立の記念として新たに独立門を同じ場所に建てた。 しかし現在韓国では子供達にこの門を日本からの独立で建設と教えている。
京城(ソウル)朝鮮総督府 庁舎  背景は禿山 日本は朝鮮半島全土の禿山に併合の36年間で五億九千万本を植林した。 市中には日本の桜ソメイヨシノをたくさん植樹したが1945年に日本から離脱後、韓国大統領が全てのソメイヨシノを日帝残梓として伐採した。 
京城(ソウル)崇禮門(南大門)  電気が通り街路灯の付いた段差のある歩道も出来た。 路面電車が走りトラックが走り日本と同じ交番(門前左側)も出来た。 背後の禿山には植林も行った。  朝鮮伝統の石ころ泥土壁・藁ぶき屋根の家は全く見あたらない。
京城(ソウル)焼失前の崇禮門(南大門)  改修後の南大門  航空写真  現在の楼閣は2013年4月に復元された物。

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日清講和条約(下関条約)

 

 

日清講和条約(にっしんこうわじょうやく) 

(第一条)清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。  

 

朝鮮は紀元前二世紀頃、衛氏朝鮮が前漢(現中国)に柵封されて以来、1895年に日清戦争で日本が勝利し下関条約(しものせきじょうやく)によって丙子胡乱の勝者清(現中国)国に敗者の朝鮮を独立国と認めさせ解放するまで、ほぼニ千年余に渡り一貫して古代中国やモンゴル帝国の冊封国(隷属国)であった。

 

朝鮮半島の農業

日本統治下の極貧の朝鮮農民を豊かにする為、米作りの耕地整理をし耕作地に最適の稲の種子を用い、農作業その他全て日本式に変えた。 結果、反当たり収量 0.49石 →1.49(3倍)、石高(米の生産量)約1千万石 →2千万石(1930)に激変、品質・味も韓国朝鮮の陸稲と日本式水稲では全く別物で農民の生活が大きく変わった。

 

朴泰赫
日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。

京城(ソウル) 明るいレンガの色に映える京城駅 大正14年(1925)にルネッサンス風の駅舎に変わる。設計は日本の高名な建築家塚本靖氏で現在史跡として保存。  韓国最初の鉄道である京仁鉄道は日本の竹内綱(吉田茂 元首相の実父)が敷設する。 1900年11月12日 仁川と漢城を結ぶ路線全線営業開始、開通式を行った。最初は木造の平屋の小さな駅舎で、名前は京城駅で始まる。
平壌(ピョンヤン)平壌府営業の市内電車  運賃は市内一律で5銭。 朝鮮半島の鉄道敷設は「日本資本主義の父」ともいわれる実業家渋沢栄一の働きが絶大。 しかしながら、現在の韓国朝鮮人は「韓国の鉄道は日本より早く敷設した、やはり韓国は凄い、日本は云々」と日本をあざけり自画自賛している。
興南(フンナム)新興工業都市 1942年撮影  併合後32年 朝鮮窒素肥料・日本マグネシウム・朝鮮鉱業などの工場が次々に進出した。  背後の禿山が緑豊かになるには、相当な年月がかかる。
1930年頃の田植え風景  上:朝鮮式陸稲(おかぼ)稲作、下:日本式水稲稲作

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伊藤博文と日韓併合


「frederick arthur mckenzie」の画像検索結果

フレデリック・アーサー・マッケンジー

 

カナダ人ジャーナリストのフレデリック・マッケンジーがロンドン・デリーメール誌に寄せた記事によると「伊藤博文公は、周知のように日本の最も偉大かつ著名な政治家である。彼の韓国赴任は大変な自己犠牲であった。伊藤公が韓国改善のプランを打ち明けたとき、私の心は躍った。そこには改革、公正、斡旋があった。李氏朝鮮が犯したあらゆる誤りがそこでは救済されるはずであった。公は、『私は、自分が韓国国民と日本国民の間に立って、両者の間に正義の行われるようにするべき立場に立っていると思う』と言明したのである」当時韓国に滞在したラッド宣教師は、「韓国は日本の保護によって新生命、新光明に浴している。高い政治道徳を重んじる進歩的であり、円満である伊藤総監によって、韓国人は暗黒時代から光明時代に導かれ、未開時代から文明世界に進むべく手を取られて進みつつあり、旧来の久しい悪政から逃れ、彼らの生命、財産は確実に保護されつつあって、あらゆる面において、3年間に2倍の進歩を遂げた」と述べ、同じくハリス宣教師は、「私の見るところをもってすると、伊藤公の統治は、最大限の賞賛に値するべきものであり、大満足しております。韓国国民は、今ようやく彼をもって自分たちの友人であることを知って、これを事実の上に現し始めました。過去3年間における韓国の進歩の大きいことは、実に私をして総監統治の最も熱心なる支持者であることを告白せしめます。すべての宣教師、その他の韓国における文明開発の義務を知るものは、著しく伊藤公の政治を支持しなければならないと思います」とコメントした。 

京城(ソウル)朝鮮銀行  広い道路には路面電車が走り歩道には街路灯・街路樹が立ち並んでいる。  遠方の禿山等には日本が併合の36年間で五億九千万本の苗木を植える。 これらは全て日本の資金で賄う。 併合時の旧韓国・李氏朝鮮は破産状態に有り、ロシア等の他国から借りていた莫大な借財も日本が全て代理弁済した。
朝鮮伝統家屋の藁ぶき屋根が見当たらない釜山 草梁市全景  路上には路面電車が走り歩道には街路樹が茂り空にはニ機の複葉機が飛んでる。  広くて真っ直ぐな道路、垂直な電柱・煙突、かわら屋根の家並。 日本内地と変わらぬ美しい町並みに大様変わりした釜山。
水豊ダム  日本が当時の金額で5億円の巨費を投じ昭和12年鴨緑江に建設した出力世界二位の水力発電所で、朝鮮及び満州の電力をまかなった。現在このダムは中朝国境に位置し、今も北朝鮮の貴重なエネルギー源となっている。 
水豊ダム工事中。 発電用のドラフト・チューブの埋め込み。  

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日本帝国のこころ

 

Helen Mears 

ヘレン・ミアーズ氏

 

アメリカの歴史家ヘレン・ミアーズは、著書「アメリカの鏡・日本」で「韓国は、古くからの中国の属国で、王家は存在したが、外交は中国の指導を仰いでいた。

日本は韓国の独立のために中国、ロシアと戦ったが、第二次世界大戦後の日本人は、自分たちが何のために戦ったかを忘れてしまったかもしれないが、当時日本はとにかく国際慣行を律儀に守り、それに促されて行動した。

日本人の総督が韓国の首都で行政権を与えられたのは、すべて韓国政府と締結した条約に基ずく。

列強の帝国建設は、日本の韓国併合ほどの合法的手続きを踏んでいなかった」 「日本人によって韓国併合後3年間で、現地情報に詳しい外国人の称賛を得るような改善が多くなされた」とコメントしている。

ミアーズが語っているように、日本人が韓国を併合したのは、韓国政府の懇願によるのである。


福沢諭吉

慶応義塾大学創始者である福沢諭吉氏が漢字ハングル混合文を考案し、ハングル活字を作る。

 

 

日本統治下の朝鮮人女性

 

性欲処理や子供をつくる道具でしかなく、名前もつけてもらえず、婦女子誘拐・強姦等の性犯罪が常態化した李氏朝鮮社会での朝鮮女性にとって日本統治は願っても無い大改革であった。

酷い身分制度が500年余り続いた李氏朝鮮から漸く解放され、貢女(コンニョ) として宗主国に送られる心配も無くなり入浴も出来、身に纏う衣服も清潔になった。

新日本人(朝鮮人)の子供達  日本統治時代の授業  皆、清潔そうな服を着たお行儀の良い小学生達。 併合前の小学校の数はほぼ皆無 → 小学校5,213校建設、生徒数2,389,135人に激変。 教育内容ではハングルを整備し体系化させ、漢字、日本語と共に普及させた 。
朝鮮語の教科書「普通学校朝鮮語読本」 併合当時の教科書  併合下では半島全土の子供達にハングルを教えた。 李氏朝鮮時代には一般人を教育する機関はなく、殆どの朝鮮人が読み書きができず、また朝鮮では漢字が重視されハングルは軽視され教育されることはなかったため、ハングルを必修科目とした日本の教育により、朝鮮民衆にハングルが広まった。 
朝鮮語の教科書「普通学校朝鮮語読本」
朝鮮語の教科書「普通学校朝鮮語読本」  大正12年(1923年 )朝鮮総督府が全国に交付。

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日本が朝鮮統治で行った封建的諸制度、因習の廃止・禁止事項  

 

日韓併合により、日本は、階級による身分差別を撤廃し、両班による搾取・虐待から農民を救い、移住の自由を認めさせ、残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止し、女性再婚の自由を保障し、人権尊重などの法治国家の基礎をつくり、学校教育制度を導入し、読み書きを教え、ハングル文字を復活・普及させ、台湾では運動が起きても1~2%にしか許可しなかった改姓名だが、85%の朝鮮人には創氏改名を許可し、鉄道網、道路網を整備し、港の開設工事をし、水力発電所を建設し、重化学工業を興し、緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させ、世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、平均寿命を24歳から56歳にのばし、人口を2倍にし、内地(日本)への渡航規制を犯して来る密航者にも寛容に対処した。

 

(身分制度廃止令は併合前だが、実際はあと)

制度の廃止

・奴婢の解放 (人口の30%)

・両班の特権廃止

・女性の解放(名前を奨め、再婚を許可)

・衣服の自由化、瓦屋根や二階建て以上の家屋の制限を撤廃

〇因習の廃止

・人身売買の禁止

・宦官(睾丸の腐割)の禁止

・纏足(てんそく)の禁止

・少女を妓生とすることを禁止

・呪術的医療の禁止(朝鮮巫術の禁止)

新日本人(朝鮮人)女子生徒達  京城(ソウル)淑明女子高等普通学校 こちらの学校は朝鮮人女子に中学教育を施す私立9校の内の1校。 休憩時間かと思われるグラウンドで静かにくつろぐ女子生徒達。  
新日本人(朝鮮人)女子生徒達  平壌(ピョンヤン)日本統治27年後 1937年 日本式の遠足 後方に大同江が見える。 少女達の手にはお弁当。 皆 清潔そうな服装と素敵な笑顔でとても楽しそう。 
新日本人(朝鮮人)男子生徒達  スキー  スキーの授業 みな楽しそう。  この授業風景は日本内地の雪国の体育授業と全く同じ。
京城(ソウル)  京城帝国大学予科 京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年(大正13年)に日本としては6番目の帝国大学として、日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された朝鮮唯一の旧制大学。大学の略称は城大(じょうだい)。

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「歴史を偽造する韓国」 中川八洋著
(2002/4) 徳間書店

日本型「司法」への中傷と誹謗
(中略)
しかし、当時の実態をひたすら歪曲する研究者があとをたたない。例えば、朝鮮総督府が定め1912年の朝鮮笞刑令が「朝鮮人に限り之を適用す」(第13条)であることをもって、朝鮮人と日本人とを刑罰上で差別するためにこの笞刑令を定めたとか、異民族弾圧法であったとか、あらん限りの中傷を加える。が、笞刑は、李朝の太祖李成桂以来、数百年間つづいた伝統的な刑罰であり、それは「旧韓国」の『刑法大全』(1905年〉にも定められている。しかも『刑法大全』は杖刑を廃止し、そのぶん笞刑を広く適用する定めとしている。

朝鮮が日本国に併合された以上、日本国の刑法が等しく適用されねばならず、『刑法大全』は無効となった。だから笞刑もなくすべきであったというのであれば筋が通る。しかし、日本は3ヶ月以下の懲役や百円以下の罰金となる、朝鮮の貧民の犯罪にいたく同情して、つまり例えば数日間であれ刑務所に収監されれば家族が飢餓に瀕する、あるいは数円ですら罰金を払うとなれば僅かな財産のすべてを失う事態を考えて、朝鮮の伝統的な笞刑をもって罰としたのである。懲役や罰金を見逃す便法であった。このため、朝鮮笞刑令第4条は、「罰金1円を笞1、懲役1日を笞1」に換算する旨を明記した。当時の朝鮮の最も貧しい階層では、家族4名、5円あれば1ヶ月は食べられた。それほど高額な1円が笞1で済むのである。すなわち、朝鮮笞刑令とは「大岡裁き」で、刑罰を温情的に軽滅する定めであった。また、「笞刑令施行規則」(1912年)の第1条によって、笞刑執行前に医師が受刑者の健康を診断することが定め、笞を小さくし、執行中に受刑者に飲水を与えるように定めた。笞刑令第5条をもって、女性や16歳未満の男児への笞刑を禁止した。それ以前の朝鮮では姦通罪の女性に対して苛酷な笞刑を行っていた。また、笞に関して朝鮮のは長さは3尺5寸(106cm)厚みは2分7厘(8.2mm)であったが日本統治により長さは1尺8寸(55cm)厚みは2分5厘(7.6mm)と短く細くなった(「施行規則第11条」)。痛みを、それ以前の朝鮮笞刑よりも数分の一に下げるためであった。臀部とはいえできるだけ肉体に傷をつけないように配慮したのである。日本の笞刑と、それまでの朝鮮の笞刑は考え方においても厳しさにおいても全く似て非なるものであった。しかし、この笞刑令をもって、「朝鮮民衆の独立運動に対する抑圧」の法律であったなどと、荒唐無稽な珍解釈をなす研究者が多い。あるいは、「反日」的言動をなした者を弾圧するために、この笞刑が実施された、などという創り話すら流布している。(朝鮮の伝統であった笞刑制度は1920年に廃止された

日本人が朝鮮人に教えた、色鮮やかな和(日本)式チマチョゴリ  日本統治により朝鮮半島に渡った日本女性が日本の染色技術と和装(着物)の色使い等を考慮し生地を作り縫製をし、新たに日本人になった朝鮮人に教えたチマチョゴリ。 現在韓国人は日本の女袴(はかま)をパクリ、お決まりの起源を主張している。
新日本人(朝鮮人)少女  平安南道中和郡 1933年 大聖堂の建物の前で弟をおぶったまだあどけない笑顔を見せる少女。 日本統治により全ての女性が名前を持つことが出来るように変わった。
新日本人(朝鮮人)女性  1935年日本統治時代 桜の花の下 赤古里(チマチョゴリ)姿の若い女性。  日本統治25年、毎日入浴等の日本の生活様式に朝鮮を変えた事により朝鮮女性も大変美しく清楚に大様変わりした。
日本統治30年後  朝鮮ホテル 1940年 ソウル 左端の女性は舞踏家・崔承喜(チェスンヒ)

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大日本帝国の功績

 

朝鮮人社会 超短期間での大変貌 

 

朝鮮総督府政策一覧 

併合時(1910)~終戦時(1945)  

・教育の普及 ほぼ皆無 → 小学校5,213校建設、生徒数2,389,135人。

・京城帝国大学創設(1924)、旧ソウル師範学校(現ソウル大学)、梨花女子大など1000校以上建設  

・朝鮮国民に教育を実施し、就学率を61%まで高めた(1944)

・ハングルを整備し体系化させ、漢字、日本語と共に普及させた  

・識字率 3-8% →80%

・人口 1,313万人 →2,512 万人(1944)  

・平均寿命 24歳 →56歳

・鉄道 3,827km敷設

・耕地面積 246万町歩 →449万町歩

・水田面積 84万町歩 →162万町歩(1928)

・石高(米の生産量)約1千万石 →2千万石(1930)

・反当たり収量 0.49石 →1.49石(3倍)

・植林 禿山に30年間で5億9千万本を植林   

 

韓国朝鮮統治と世界の評価


日韓併合 望んだのは誰、阻んだのは

朝鮮で併合を阻んだのは主に両班と儒学者(朝鮮朱子学)達で他の民衆は総じて日本との新しい社会への期待に大歓喜した。

両班達は宗主国「清」の下、朝鮮社会の最上階に身を置き、働く事を卑下し民衆を奴隷の如く扱い栄耀栄華(朝鮮社会の中で)の暮らしが出来ていたが日韓併合で全てが無に帰す事がいたたまれず抵抗運動を起こし法を犯した。

その代表がアメリカに亡命し、後に自国民大虐殺を敢行した初代韓国大統領「李承晩」。

日本での併合反対は朝鮮人両班のテロリスト「安重根」に暗殺された初代内閣総理大臣「伊藤博文公」をはじめ「脱亜論(だつあろん)」を唱え慶応義塾を創設した福沢諭吉ほか多数。

日韓併合の結果、従来の欧米の植民地支配とは全く異なる日本の統治方法が多くの国々から非常に高く評価された。

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