(補)白衣民族濊ワイ族 激憤の歴史
中国 朝鮮 日本 歴史年表
(補)白衣民族濊ワイ族 激憤の歴史
「日本の皇室の起源は百済から」
『日本は百済が作った。百済の渡来人が来るまで日本は何の文化も無い石器時代だった』
史実 :古墳時代中期(半島の三国時代)半島南部は倭国(現日本)の支配地
中国正史・三国志及び広開土王碑
広開土王碑
中国人「徐建新」教授が1881年に新発見した最古の拓本及び、日本人酒匂景信(さこうかげあき)拓本が存在
要約 「391年(辛卯)倭(やまと)が海を渡り百済・新羅を臣民とする」
濊ワイ族 歴史捏造
日本の皇紀より古い紀元をと創作
『壇君王倹が西暦 紀元前2333年に国を開いた』
檀君(だんくん)は13世紀末(高麗時代)に書かれた「三国遺事」にはじめて登場する伝説上の古朝鮮初代王。
ちなみに壇君王倹の母親は人間ではなく熊、人間に化身した熊女。
『前方後円墳を倭国に伝えた』
1980年代南道の栄山江沿いに十四基の前方後円墳が発見された。朝鮮人は即「前方後円墳の発祥地は朝鮮で、倭国へ伝えた」と主張 しかし固城松鶴洞(ソンハクトン)古墳を三つの円墳に整形 理由は朝鮮半島の前方後円墳が見つかった地が日本書紀に記載の任那西部の日本の支配地で、造営された年代が5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代)
一方、日本の前方後円墳は3世紀中頃から7世紀初頭頃と明らかに朝鮮半島の前方後円墳より古く且つ壮大で、数も4800基~5200基と14基を圧倒。
『日本皇室の起源は百済にある』
史実:百済は過去日本の支配地
第50代桓武(かんむ)天皇(在位781年~806年)の母高野新笠(たかののにいがさ)は桓武天皇の父第49代光仁天皇の正妻では無く、天皇に仕える百済系宮人であり人質の末裔。人質は日本の文化を知る為に渡来した百済王の子供達、合わせて非常に多くの百済人が渡来した。
百済の第25代武寧王(ぶねいおう・在位501-523年)
武寧王は人質であった母親が日本で生んだ男の子で日本が百済に帰し、国王になったのが史実。その子純陀(じゅんだ)太子が人質として渡来
在日1世「純陀太子」→2世「斯我君」→3世「法師君」→4世「雄蘇利紀君」→5世「和史宇奈羅」和史(やまと)に改名して日本に帰化→6世「和史粟勝」→7世「和史浄足」→8世「和史武助」→9世「和史乙継」娘を天皇家に嫁がせて、高野(たかの)姓を賜る→在日10世「高野新笠」第49代光仁天皇のお手がつく


(補)白衣民族濊ワイ族 激憤の歴史
歴史を嘘でもてあそぶ
『韓国は日本に一度も攻め入ったことは無いが、日本には幾度も侵略され酷い目にあわされた』
史実
白村江(はくそんこう)の戦 飛鳥時代(663年10月)
中華国の唐(とう)及び半島の新羅(しらぎ)と日本の倭国(わこく)及び半島の百済(くだら)との連合軍同士の戦い。戦に敗れた半島一部支配の倭国が日本列島に戻り、半島が統一新羅となる。 その後、新羅・高麗(こうらい)の賊により対馬や肥前の五島などの倭国が数百年に渡り侵された。
新羅の賊 813・869・894
統一新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。 主なものでは弘仁新羅の賊(813年)、貞観の入寇(869年)、寛平の韓寇(894年)などの侵入が多数あり。
新羅の後、高麗の長徳の入寇(997年)により、引き続き多くの女性が犯され拉致される。
高麗国王・忠烈王が宗主国「元のモンゴル皇帝フビライ・ハーン」に媚び、倭国(日本)との戦いを促し率先し現九州に攻め入る。
元寇(げんこう)の役 1274・1281
元と高麗連合軍対日本との戦争
大元朝の蒙古(もうこ・モンゴル・現中国)軍と、その属国である配下の高麗(こうらい・現韓国朝鮮)軍との連合軍(韓国・麗元連合軍)が日本を服属させる為、文永11年(1274)10月と弘安4年(1281)5月のニ度に渡り、対馬・壱岐・九州北部の別府・博多を攻めたが、鎌倉幕府執権北条時宗(ほうじょうときむね)がニ度ともモンゴルの侵攻を退けた。
2度目の弘安の役では日本へ派遣された艦隊は約140,000~156,989人(水夫は除く)、軍船4,400艘と元寇以前との比較で世界史上最大規模の艦隊であった。
応永の外寇 1419
李氏朝鮮では朝鮮が227隻の船に17,285人の兵士を率いて対馬に攻め入るが、対馬の軍勢が朝鮮軍を撃退する。
倭寇(わこう)
元寇時の倭国被害者が元を煽り先導した高麗(現韓国朝鮮 )と加担した明(現中国)に豊臣秀吉の海賊禁止令(1588年)が下りるまで長期に渡り徹底した報復を続けた。これが「倭寇(武装商人)」
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韓国朝鮮人 ルーツ
現在の韓国朝鮮人のルーツは中華国系の新羅・百済・高句麗人ではなく北方モンゴロイド・エベンキ族系のエベンキ・ワイ族
〇ソウル大医大イ・ホンギュ教授
「韓国人は北方モンゴロイドのエベンキ族と南方原住民の血が混ざって形成された民族」と主張。
韓国朝鮮人の祖エベンキ・ワイ族は酷寒の地に住む遊牧民。
衛生観念や貞操観念が非常に乏しい特異な民族。
ちなみにエベンキ族の住むサハ共和国はロシアのハバロフスクの上、オホーツク海に隣接したマガダンの西側からウラル山脈東側まで東西、南北の長さが各々2千kmになる。
エベンキ・ワイ族並びに韓国朝鮮人の顔の特徴
頬(ほほ)骨・鰓(えら)骨が尖り左右に張る。目が細く一重で目尻が上げる。耳たぶが無いか有っても薄くて細く小さい。耳垢が乾性。 合致する個所が多いほど血が濃厚。
〇韓国外国語大学ロシア語科のカン・トクス教授
朝鮮人のルーツを研究
「アリラン・スーリ」はエベンキ・ワイ族の代表的な歌。
歌詞の意味は、遠くの人々を懐かしむ「アリラン(迎える)・スーリ(感じとる)」。 朝鮮の歌アリランには「アーリアリラン、スールスーリラン」とそっくりな言葉が続く。節回しも酷似している。 韓国人はアリランという言葉、スーリも意味不明と言ってるが、エベンキの言葉では意味はハッキリしている。
朝鮮語とエベンキ・ワイ族語
エベンキ語のデョルは韓国語のドルで「石」
デュルはドゥルで「2(二)」
デュル-レはドゥル-レで「周り」
ムはムルで「水」
アミはアビで「父」
エニはエミで「母」
アシはアッシで「若い女性(アガシ)」
アキはアチで「おじさん(アジョシ)」
べイェはべで「輩」
~ンイは~ウイで「~の」を意味する。
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冊封国 李氏朝鮮 「清」に隷属
李氏朝鮮 従属による民族性の形成
丙子胡乱(へいしこらん)
1636年~1637年 清(現中国)と李氏朝鮮(現韓国朝鮮)との40日戦争。
結果は朝鮮が清に敗北し1637年1月30日、朝鮮王仁租は城を出て漢江南岸の三田渡にある清に出向き清に対する降伏の礼を行わされた。そして和議を行い和睦を締結。
和睦の主な内容
・朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽
くすこと。
・朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を
禁じ、明から送られた誥命と明から与
えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡
すこと。
・王の長子と次男、および大臣の子女を
人質として送ること。
・清国が明を征服する時には、求められ
た期日までに、遅滞なく援軍を派遣す
ること。
・内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を
固くすること。
・城郭の増築や修理については、清国に
事前に承諾を得ること。
・清国皇帝の誕生日である聖節・正朔で
ある正月一日・冬至と慶弔の使者は、
明との旧例に従って送ること。
・清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃す
る時に、兵船五十隻を送ること。
・清国からの逃亡者を隠してはいけな
い。
・日本との交流を許すこと。
・清国に対して黄金100両・白銀1000両
と20余種の物品を毎年上納すること。
この和議により、李氏朝鮮は清の冊封国となり、清の冊封体制に組み込まれた。
大清皇帝功徳碑 碑文大意(漢文)
・大馬鹿な朝鮮王は愚かにも、偉大な清
国皇帝に逆らった。
・清国皇帝は愚かな朝鮮王を窘め、己の
大罪を諭してやった。
・良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさ
を猛省し、偉大な清国皇帝の臣下にな
ることを誓った。
・我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠
に忘れず、また清国に逆らった愚かな
罪を反省するために、この石碑を建て
ることにする。
(wikipedia 大清皇帝功徳碑 より)
三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)
1「跪」の号令で跪き
2「一叩(または『一叩頭』)」の号令
で手を地面につけ、額を地面に打ち付
ける
3「ニ叩(または『再叩頭』)」の号令
で手を地面につけ、額を地面に打ち付
ける
4「三叩(または『三叩頭』)」の号令
で手を地面につけ、額を地面に打ち付
ける
5「起」の号令で起立する
これを三回繰り返し、「手を地面に付け、額を地面に打ち付ける」を合計9回行う。


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李氏朝鮮 主義及び思想
[中華思想]
自国が世界の中心にあり、花が咲き誇っている国という意味で「中華」と尊び、周りの国々を夷狄(いてき)と蔑み、野蛮であるとする漢民族(中国人)の思想で「華夷(かい)思想」とも言う。
夷狄とは未開の野蛮人、中華国の周りの国々を指す。
[慕華思想]
中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として朝鮮では宗主国中国を「大中華」と呼んでいた。これを朝鮮では慕華思想と言い、朝鮮の両班が中華国を少女の如くお慕いする事を国是とした。
[小中華思想]
中華国を夷狄(いてき野蛮人)の国である清が支配している以上、自国朝鮮のみが中華文明(世界の中心)の正統な継承者で、清は夷狄、日本は倭夷、西洋は洋夷で朝鮮のみが儒教の伝統を継承する国であるという考え。
[事大主義]
長いものには巻かれろ
勢力の強大な者に付随して自分の存立を維持する思想
強い者には媚びへつらい、弱い者は蔑み奴隷を扱うが如くに接する、いわゆる『狐借虎威』 虎の威を借る狐。
現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする「ご都合主義」。
[朱子学]
朱子学は宋代に生まれた新しい儒教(儒学)思想で「悪魔崇拝」
南宋の朱熹(1130~1200年)が作った。
朝鮮朱子学・・・歪んだ朝鮮の儒学
支配階級の為の実践的な思想で、身分制度の尊重と君主に従うことを説く。
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李氏朝鮮 身分制度
[両班ヤンバン] 約7%
文班、武班:科挙によって登用される文武の高い官職や儒教の学者をだした一族。両班である事はその血統によって保証され、自分の一族が由緒正しい身分の出であることを証明する族譜(家系図・身分証明)が大変重んじられた。
17世紀、没落両班から族譜を高値で買ったり盗んだりして両班になる者が現れ、李朝末期(1858年)には人口の48.6%戸数で70.2%に両班が急増した。
[良人ヤンイン] 約50%
自由民で納税、国役の義務を負う。
・中人(チユンイン) 両班を補佐 下
級役人、技術官など。
・常民(サンミン) 農民、商人、職人
[賎人チョニン] 約43%
非自由民、李朝八賤
・仏教の僧侶(スンリョ) 李氏朝鮮時
代は儒教が国教。
仏僧は賎民階級になり都の漢陽に入る
ことを禁止された。
・胥吏(ショリ) 庶民でありながらも
役人の仕事をする者。
俸禄を支給されなかったので、不正や
収奪が横行。
・女官(にょかん) 宮中において様々
な職務に従事。
・妓生(キーセン) 諸外国からの使者
や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽
技を披露したり、性的奉仕する女。
・医女(ウイニョ) 両班や王族に属す
る女性を診察する婢身分の医師。芸道
にも通じ、末期には妓生(売春婦)と
同一。
・男寺党(ナムサダン) 朝鮮半島の伝
統的旅芸人。
男色を集団の絆とした組織で売春によ
って収入を得ていた。
・奴婢(ノビ) 奴婢には公奴婢と私奴
婢があり、公奴婢は王宮や官庁での仕
事に従事。
私奴婢は両班の私有財産。賎民の中で
奴婢が一番多く公私それぞれ40~50万
人存在。
無償で使役や売春をさせられる為、奴
隷に近い。
・白丁(ペクチョン) 最下層とされ一
般の村に住めず良民とは結婚できなか
った。主に食肉加工を生業とした。

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李氏朝鮮 仏教弾圧
李氏朝鮮時代に入ると、一転して儒教が国教となったため、仏教は徹底的に弾圧された。
初期には王族の保護を受けたが、士林派の集権で弾圧が強化された。
僧は都の漢陽に入ることを禁止された上、賎民階級に身分を落とされた。
また、全国に1万以上もあった寺院は、国家的に保護を受けるべきものが242寺に限定され、その他の寺院は所有地と奴卑を没収され、また多くが破壊された。
さらに、第3代太宗の時代の1407年(太宗7年)には、12宗が7宗88寺院(曹渓宗・天台宗・摠南宗・華厳宗・慈恩宗・中神宗・始興宗)に、次の世宗の治世(世宗6年・1424年)にはその7宗派も曹渓宗・天台宗・摠南宗を統合して禅宗、華厳宗・慈恩宗・中神宗・始興宗を統合して教宗と、2宗派にまとめられた。
88の寺院は、禅宗18寺院・教宗18寺院の計36寺院を残し廃寺となり、この時期に朝鮮半島の仏教は著しく衰退した。
成宗(在位1469年-1494年)・燕山君(在位1494年-1506年)・中宗(在位1506年-1544年)の時代、仏教はさらに壊滅的打撃を受けた。
成宗は1492年、僧侶の度牒制度と出家を禁止した。
燕山君は2宗派の本山である興天寺(禅宗の本山)と興徳寺(教宗の本山)を1504年に廃寺にし、そのほかの寺院も遊興施設にかえた。
中宗は1507年に科挙の僧科を廃止し、また仏像を破壊させた。
(Yahooブログ 対馬で盗難の仏像、韓国の寺に所有権=裁判所が引き渡し命令 より抜粋)
(補)白衣民族濊ワイ族 激憤の歴史
韓国 歴史教育
『日帝が韓国の「仏国寺」を破壊した』
史実:朝鮮人が「崇儒廃仏」(儒教を崇め仏教を排斥する)により破壊した寺を日帝がお金を使って保存に努めたので辛うじて残り、現在ユネスコ世界遺産に登録されている。
韓国朝鮮では文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)、韓国朝鮮の言い方は壬辰・丁酉倭乱の時に日本の秀吉軍が仏像を破壊し尽くしたと子供達に教え伝えている。
文禄の役(1592~1593年)
慶長の役(1597~1598年)
文禄慶長の役では寺内での戦いで焼失した物は有るが既に寺や仏像は破壊し尽くされていた。
韓国朝鮮の子供
韓国朝鮮の子供達は小さい時から日本が韓国朝鮮の文化を破壊した、日本が奪った等と嘘の歴史を家庭や学校で教えられて育つ。
それで歴史的な文化財が多く残る日本が妬ましいのか羨ましいのか、それとも恨みの所為か、日本の城郭・神社・仏閣等の文化財を盗み壊すために来日し実行する。
この様な韓国朝鮮人の愚かな行いは明らかに教育が原因。敢て犯罪者を育む国家が世界の何処にあろうか。しかしながら韓国大統領自ら世界中に嘘を撒き散らしている現状では手のほどこしようが無い。韓国司法も「国民情緒法」に狂い、自国の窃盗団が日本から盗んできた物を、全て日本が悪、日本には返さずとも良いなどと国民を煽っている。
(補)白衣民族濊ワイ族 激憤の歴史
朝鮮通信使 日本渡来
朝鮮通信使の来歴 (江戸時代)
1607年、1617年、1624年、1636年
1643年、1655年、1682年、1711年
1719年、1748年、1764年、1811年
「日東壮遊歌」朝鮮通信使 金仁謙著
〇1764年1月22日 大阪
100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。 大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、 銅の屋根で、黄金の内装である。 この贅沢さは異常だ。 都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。 中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。 世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。 ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。 北京を見た通訳が通信使にいるが「北京の繁栄も大阪には負ける」 と言っている。 穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。 そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。 嘆かわしく、恨めしい。
〇1764年1月28日 京都
街の繁栄では大阪には及ばない。 しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。 山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。 この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。 悔しい。 「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。 悔しい。 この犬のような倭人を全て掃討したい。 この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。
〇1764年2月3日 名古屋
街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。 凄い。 自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。 中原(中国の中心地)にも無い風景だ。 朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。 人々の美しさも最高だ。 特に女性が美しい。 美しすぎる。 あれが人間だろうか? 「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、 美しさを失うだろう。
帰路にて
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。 我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、 頭を左右に必死に動かしている。
〇1764年2月16日 江戸(東京)
左側には家が連なり、右側には海が広がっている。 山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。 楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船…。 全てが大阪や京都より三倍は優っている。 この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。 女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。
(補)白衣民族濊ワイ族 激憤の歴史
朝鮮通信使 続き「感想」
〇大阪港の感想
「その昔、桜船で下る王濬(おうしゅん)が益州を称えた詩があるがここに比べてみれば間違いなく見劣りするであろう」 「倭の十一隻の金の桜船が命を受けて迎えに来ていた・・・その豪華絢爛 万古に例を見ない見事さである」
〇大阪の感想
「三神山の金闕銀台とは まことこの地のことであろう」 「人家が塀や軒をつらね その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である」 「我が国の都城の内は実際には一里に及ばない・・・(大阪は)ほぼ十里と言われる土地は全て利用され・・・」 「北京を見たという訳官が一行に加わっているが かの中原の壮麗さもこの地には及ばないという」
〇淀城の水汲み水車の感想
「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」
〇京都にて
「人々の富める様は大阪には及ばないが都の西から東までの距離は三里に及ぶという」 「惜しんで余りあることは この豊かな金城湯池が 倭人の所有するところとなり 帝だ皇だと称し 子々孫々に伝えられていることである この犬にも等しい輩を 皆ことごとく掃討し四百里六十州を 朝鮮の国土とし 朝鮮王の徳をもって 礼節の国にしたいものだ」
〇名古屋の感想
「山川広闊にして 人口の多さ 田地の肥沃 家々の贅沢なつくり 遠路随一といえる 中原にも見あたらないであろう 朝鮮の三京も大層立派であるが この地に比べれば寂しい限りである」
〇江戸の感想
「楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい 男女の華やかさ 城郭の整然たる様 橋や船にいたるまで 大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える」
朝鮮通信使(1764年)の実態
通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりといった乱暴狼藉を働くなど盗賊程の行儀の、礼を知らぬ者達であった。江戸からの帰途、大阪は長浜で鈴木伝蔵という対馬藩の通詞(通訳)が余りに酷い無礼をはたらいた通信使の都訓導(中級官人)崔天宗を槍で刺し殺す事件がおきた。

