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(補)朝鮮半島 『恨』ハン の歴史

 

中国 朝鮮 日本 歴史年表

 

(補)朝鮮半島 『恨』ハン の歴史

 

三韓時代(3世紀から4世紀)の地図

 

・遼東郡(中国領)

・楽浪郡(中国領)

・帯方郡(中国領)

・馬韓(中国の属国)

・辰韓(中国の属国)

弁辰(中国の属国)

弁辰は弁韓

 

韓半島南沿岸部は倭国(やまと・日本)の支配地

 

中国正史「三国志・魏書・東夷伝・倭人の条」より作図

  

出典: http://bokudoart.blog.fc2.com 溝口墨道ブログ 真説 古代の朝鮮半島より抜粋

半島のワイは「濊」 三韓の南沿岸部は倭国の支配地 三韓の内、弁韓を弁辰とも言う。

(補)朝鮮半島 『恨』ハン の歴史

 

半島人の捻くれた国史

 

(ワイ)族

宗主国(古中国)での半島人の呼称、その族が戯言を

 

『日本人の先祖は韓半島から渡った人達』

否、最も多くの日本人(約50%)の持つ父系遺伝子、ミトコンドリアDNA系統分析「ハプログループD1b(D2)」は3万年前に日本列島で出現、韓国朝鮮人や中国人には殆ど見られない。因って、人種的には別。

逆に7000年前頃、倭国の縄文人が朝鮮半島に渡り南部に住み着く。朝鮮半島で日本独自の縄文土器や翡翠の勾玉の出土がその証し。

 

『日本の文化は全て半島人がもたらした物』

否、日本の歴史・文化の始まりは旧石器時代

 

旧石器時代では、古くは4万年~3万年前の群馬県・岩宿(いわじゅく)遺跡から世界最古の磨製石器 (槍先形尖頭器)が、また沖縄県南城市玉城・サキタリ洞(どう)遺跡(2万3千年前)からこれも世界最古の魚の釣り針が、青森県大平山本Ⅰ遺跡(1万6千5百年前)から世界最古の土器(縄文)と石鏃(せきぞく・やじり)が出土、北海道函館市垣ノ島B遺跡 縄文時代早期(9千年前)から中国の漆とは樹種が違う世界最古の漆器(これまでは中国・長江下流域の河姆渡遺跡出土の7千年前の漆器が世界最古)が、同じく新潟県・笹山遺跡 縄文時代中期(5千3百年前)から火焔(かえん)土器、富山県・桜町遺跡(4千年前)の高床式建物や、縄文晩期( 3千年前~2千4百年前) 東北地方で多く出土した「炭化珪素による焼き戻し法」と言う現在のセラミック加工技術に通じる特殊な処理が施されている遮光器土偶(しゃこうきどぐう)。

さらに朝鮮半島の多くの遺跡から出土した翡翠の勾玉(ひすいのまがたま)は全て日本本土出土の勾玉と同じく新潟県糸魚川市姫川で縄文時代から加工されて朝鮮半島の百済・任那加羅・新羅の倭国(日本)支配地に渡った物 。(日本書紀、広開土王碑)

糸魚川産ヒスイの硬度は7.0度で硬玉・ジェタイト(本翡翠)と呼ばれ、微細な結晶が絡み合っているため非常に壊れにくく堅牢な石で、大変加工がしにくいのが特長。

石器類では新潟県の翡翠の他に北海道の黒曜石、岩手県の琥珀の石器が日本各地で出土するが、これら縄文人の交易は当然の事ながら船で行われたものと考えられている。

 

稲作に関して

日本の稲作開始は九州大学の縄文時代の遺跡調査の結果1万2千年前に遡る事が判明。  

又、近年炭素14  年代測定法により、稲作は日本から朝鮮半島に渡ったものであることが明らかになる。

 

やはり寒冷な朝鮮半島では日本列島北部の北海道と同じく、稲や茶などの温暖な土地の作物の栽培は困難で、弥生時代に朝鮮半島から渡って来た物ではなく、逆であった。

「日本文化の足跡」 世界最古の磨製石器 (槍先形尖頭器)4万年~3万年前  群馬県・岩宿(いわじゅく)遺跡から出土 黒く透き通る黒曜石で出来ている。 長さ約7cm、幅約3cm この石器は木材の面を平らに削る槍鉋(やりかんな)として使われたと考えられている。 いわば「日本刀」や「槍」「薙刀」の祖。やはり日本人の物作りに対しての心、職人魂が此方の石器からうかがえる。 
「日本文化の足跡」 世界最古の釣り針 2万3千年前  沖縄県南城市玉城・サキタリ洞(どう)遺跡から出土 ニシキウズ科の巻き貝の底部を割り、磨いて作った小型の釣り針で、幅約14ミリ。 反しは無いが完璧な作り。 
「一万年前の縫い針」 骨角器 栃原岩陰遺跡 長野県北相木村(きたあいきむら)  縄文早期 およそ一万年前に鹿の骨で作られた美しい縫い針 糸を通す針穴も小さく、全体が良く磨きこまれて艶がある。 現在の針とこの針との違いは材質だけの様。 物作りにこだわる精神は、やはり日本人の祖先にあった事がうかがえる出来栄え。
「最古のヒスイ大珠」  天神遺跡 山梨県北杜市大泉村(縄文前期五千~六千年前) 翡翠の玉は奴奈川郷(新潟県糸魚川市姫川)で縄文時代中期(約5千年前)から古墳時代(5世紀頃)まで連綿と作り続けられ、皇室の三種の神器の1つ八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)も糸魚川産の翡翠製大珠。翡翠玉はその時代に北は北海道から南は九州や朝鮮半島まで伝播した。

(補)朝鮮半島 『恨』ハン の歴史


半島人の捻くれた性根

 

韓国朝鮮人の戯言

『かつて朝鮮は倭国(わこく・日本)を支配した』

史実 :古墳時代前期(半島の三韓時代)半島南部は倭国(現日本)の支配地 (中国正史・三国志及び広開土王碑)

「広開土王碑」古墳時代中期(414年)倭国に関連した記述は十一カ所

酒匂景信(さかわかげあき)拓本 要約

・391年(辛卯)倭(やまと)が海を渡り百済・新羅を臣民とする。

・399年(己亥)百済は高句麗との約を違え倭と通じ、平壌に来攻、一方、新羅より急使あり、倭人国境に満つ。

・400年(庚子)新羅救援のため五万の兵を派遣、倭軍城中に満つ、倭兵を討つ。

・404年(甲辰)倭、不軌(無法)にも帯方郡に侵入。

・407年(丁未)五万の兵を率い(倭と)戦う、(倭は)鎧一万余を残し敗退。

    
前方後円墳を倭国に伝えた

史実 : 朝鮮半島で前方後円墳が見つかった地が『日本書紀』に記載された任那西部の日本の支配地。 

1980年代南道の栄山江沿いに十四基の前方後円墳が次々と発見され、朝鮮人は「前方後円墳の発祥地は朝鮮で、倭国へ伝えた」と声高に主張。しかし、その様な主張もほどなく破綻、ただちに固城松鶴洞(ソンハクトン)古墳を三つの円墳に整形してしまった
なぜ愚かなことを・・・朝鮮半島の前方後円墳が造営された年代は5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代)。

一方、日本の前方後円墳は2世紀末頃から6世紀末と明らかに朝鮮半島の前方後円墳より古く、数も4800基~5200基と14基を圧倒。

 

『日本皇室の起源は百済にある』

史実:第50代桓武(かんむ)天皇(在位781年~806年)の母高野新笠(たかののにいがさ)は父第49代光仁天皇の正妻では無く、天皇に仕える百済系宮人。

  

百済の第25代武寧王(ぶねいおう・在位501-523年)の子純陀(じゅんだ)太子人質として渡来す。

(武寧王:既に懐妊していた母が人質として渡来し倭国で出生した子)

 

在日1世「純陀太子」→2世「斯我君」→3世「法師君」→4世「雄蘇利紀君」→5世「和史宇奈羅」和史(やまと)に改名して日本に帰化→6世「和史粟勝」→7世「和史浄足」→8世「和史武助」→9世「和史乙継」娘を天皇家に嫁がせて、高野(たかの)姓を賜る→在日10世「高野新笠」第49代光仁天皇のお手がつく

 

「日本書記」

養老4年(720年) 任那西部記載

継体天皇6年(513年)、継体天皇は任那の上哆唎(オコシタリ、現在の全羅北道鎮安郡及び完州郡)・下哆唎(アロシタリ、忠清北道錦山郡及び論山市)・娑陀(サダ、全羅南道求礼郡)・牟婁(ムロ、全羅北道鎮安郡竜潭面)の四県、7年(514年)に己汶(コモン、全羅北道南原市)・滞沙(タサ、慶尚南道河東郡)の地をそれぞれ、倭国から武寧王の百済に譲渡した。これに応えて百済は517年に、日本に送っていた博士段楊爾に代えて五経博士漢高安茂を貢上した。

広開土王碑 414年建立  中国吉林(きつりん)省集安市に現存 高句麗の第19代の国王、広開土王の功績を記した石碑 高句麗は朝鮮半島の北半部から中国東北地区におよぶ広い範囲を治めた古代国家で、広開土王は第19代の王として391~412年まで在位していた。
前方後円墳 固城松鶴洞(ソンハクトン)古墳 1996年撮影(西より望む) 朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期のもの。百済が南遷して併呑を進める以前に存在した任那地域の西部や半島の南端部に存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴う。特に倭国王権の勢力を示す物では、新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土の 『翡翠(ひすい)製勾玉』 がある。
日本最大の前方後円墳 『百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)』 通称大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)大阪府堺市 航空写真   最大規模の前方後円墳(5世紀前半-中頃の築造) 墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らしている。 墳墓の表面積としてはエジプト・クフ王のピラミッドおよび秦(シン・中国)の始皇帝陵をしのぐ世界最大の墳墓。
桓武天皇御母・高野新笠陵 京都市西京区大枝沓掛町  平成三年(2001)に、天皇陛下が、翌年のサッカーワールドカップ共催に際しての記者会見で、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と発言なされた。

(補)朝鮮半島 『恨』ハン の歴史

 

なぜ子供達に嘘を教える

 

『韓国は日本に一度も攻め入ったことは無いが、日本には幾度も侵略され酷い目にあわされた』

 

史実:かつて元寇の役で朝鮮半島の王である高麗国王・忠烈王が宗主国「元のモンゴル皇帝フビライ・ハーン」に媚び、率先し倭国(日本)に攻め入った。それ以前にも、新羅(しらぎ)・高麗(こうらい)の賊により対馬や肥前の五島などの倭国が数百年に渡り侵された。

 

新羅の賊 813・869・894

統一新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。 主なものでは弘仁新羅の賊(813年)、貞観の入寇(869年)、寛平の韓寇(894年)などの侵入が多数あり。

新羅の後、高麗の長徳の入寇(997年)により、引き続き多くの女性が犯され拉致される。

この様な朝鮮半島人による侵略が数百年と続いた。

 

元寇(げんこう)の役 1274・1281

元と高麗連合軍対日本との戦争

大元朝の蒙古(もうこ・モンゴル・現中国)軍と、その属国である配下の高麗(こうらい・現韓国朝鮮)軍との連合軍が日本を服属させる為、文永11年(1274)10月と弘安4年(1281)5月のニ度に渡り、対馬・壱岐・北部九州の別府・博多を攻めたが、鎌倉幕府執権北条時宗(ほうじょうときむね)がニ度ともモンゴルの侵攻を退けた。

2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は約140,000~156,989人(水夫は除く)、軍船4,400艘と元寇以前との比較で世界史上最大規模の艦隊であった。

この元寇初期の頃の襲撃を「対馬では男はみな撲殺され、女は手に穴を開けられて綱を通され、船べりに繋がれ朝鮮半島に拉致された」などと日蓮宗の宗祖・日蓮(にちれん)が信徒から伝え聞いている。   

 

倭寇(わこう)と仮倭

元寇時の倭国被害者が元を煽り先導した高麗(現韓国朝鮮 )と加担した明(現中国)に豊臣秀吉の海賊禁止令(1588年)が下りるまで長期に渡り徹底した報復を続けた。これがいわゆる「倭寇(武装商人)」である。

この時期に明人や高麗人及び後の李氏朝鮮人が日本人を装い倭寇と称し、自国朝鮮・明の各地を荒らし回った。 この成り済ます族が「仮倭」と呼ばれ、そのまま現代まで続き悪を為す。

『蒙古襲来絵詞(えことば)』 宮内庁三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)蔵   赤坂の戦い追撃戦 別府の塚原から麁原の元軍に合流しようとする元軍小勢とそれを追撃する三井資長。
『蒙古襲来絵詞(えことば)』 宮内庁三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)蔵   騎兵を密集させて集団で突撃する日本軍。クビライに仕えた王惲も武士の様子を 「騎兵は結束す」 と記している.。
『蒙古襲来絵詞(えことば)』 宮内庁三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)蔵    御厨海上合戦 閏7月5日、撤退する元軍船の追撃。竹崎季長、元軍船に乗り込み元兵の首を取る。
北条時宗(ほうじょうときむね) 画:菊池容斎  鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。 モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻(元寇)を退け、日本の国難を救った英雄と評される武人。

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李氏朝鮮 清に隷属

 

李氏朝鮮 隷属による民族性の形成  

  

丙子胡乱(へいしこらん)

1636年~1637年 清(現中国)と李氏朝鮮(現韓国朝鮮)との40日戦争。

結果は朝鮮が清に敗北し1637年1月30日、朝鮮王仁租は城を出て漢江南岸の三田渡にある清に出向き清に対する降伏の礼を行わされた。そして和議を行い和睦を締結。

 

和睦の主な内容

・朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。

・朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。

・王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。

・清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。

・内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。

・城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。

・清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。

・清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。

・清国からの逃亡者を隠してはいけない。

・日本との交流を許すこと。

・清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品を毎年上納すること。

  

この和議により、李氏朝鮮は清の冊封国となり、清の冊封体制に組み込まれた。

 

大清皇帝功徳碑 碑文大意(漢文)

・大馬鹿な朝鮮王は愚かにも、偉大な清国皇帝に逆らった。

・清国皇帝は愚かな朝鮮王を窘め、己の大罪を諭してやった。

・良心に目覚めた朝鮮王は自分の愚かさを猛省し、偉大な清国皇帝の臣下になることを誓った。

・我が朝鮮はこの清国皇帝の功徳を永遠に忘れず、また清国に逆らった愚かな罪を反省するために、この石碑を建てることにする。

(wikipedia 大清皇帝功徳碑 より)

  

三跪九叩頭の礼

1「跪」の号令で跪き

2「一叩(または『一叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける

3「ニ叩(または『再叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける

4「三叩(または『三叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける

5「起」の号令で起立する

これを三回繰り返し、「手を地面に付け、額を地面に打ち付ける」を合計9回行う。 

「迎恩門」  丙子胡乱(へいしこらん)の戦に敗れた朝鮮王が大清国皇帝の使者を、三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)を行い迎える門  1895年4月の日清講和条約で日本が朝鮮を独立させると直ちに朝鮮がこの門を破壊し傍に独立門を建てた。朝鮮人は二千年の間、宗主国が変わるごと前者の関係物を破壊し破棄した。 因って、現在韓国朝鮮には真正の歴史的建造物や遺物等が極めて少ない。 
「大清皇帝功徳碑」(三田渡碑)  碑文 大馬鹿な朝鮮王は愚かにも 偉大な清国皇帝に逆らった 清国皇帝は愚かな朝鮮王を窘め 己の大罪を諭してやった・・・この碑は日清戦争での日清講和条約(下関条約)締結後、解放された韓国朝鮮人により、あまりにも恥辱であるとして直ちに壊され川の中に投げ捨てられた。日本併合後、日本の説諭により川底から掘り出され、史碑として同じ場所に再度建立された。 
「三跪九叩頭碑」  大清帝国皇帝ホンタイジに三跪九叩頭の礼をする朝鮮王仁祖を記録する大清皇帝功徳碑(三田渡碑)の隣に建つ銅板レリーフ。朝鮮王仁祖は王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、 受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い、 許しを乞うた。
三跪九叩頭の礼と属国旗(現中国への隷属)  朝鮮最古の国旗  太極が剖判して両儀を生じた図 : 周(中国)の易より、宇宙混沌が開闢して陰と陽、天と地が分かれたという意味。故に円が2つに分かれた形となっている。 朝鮮日報が大清国属の文字を削除し高麗国旗の文字だけ残し、捏造した国旗を教科書に載せ子供達に教えている。

(補)朝鮮半島 『恨』ハン の歴史

 

李氏朝鮮の主義・思想

 

[中華思想]

自国が世界の中心にあり、花が咲き誇っている国という意味で「中華」と尊び、周りの国々を夷狄(いてき)と蔑み、野蛮であるとする漢民族の思想。

「華夷(かい)思想」とも言う。

夷狄とは未開の野蛮人、中華国の周りの国々を指す。

 

[慕華思想]

朝鮮の両班が中華国を少女の如くお慕いする思想。

韓国朝鮮人は李氏朝鮮が終わるまで宗主国中国を「大中華」と呼んでいた。これを朝鮮では慕華思想と言い、国是としていた。

  

[小中華思想]

中華国を夷狄(いてき)の国である清が支配している以上、自国朝鮮のみが中華文明(世界の中心)の正統な継承者で、清は夷狄、日本は倭夷、西洋は洋夷で朝鮮のみが儒教の伝統を継承する国であるという考え。

 日本と同じ東夷(東の夷狄)である韓国朝鮮人は自国を外して考えている。

  

[事大主義]

勢力の強大な者に付随して自分の存立を維持する思想

強い者には媚びへつらい、弱い者は蔑み奴隷を扱うが如くに接する、いわゆる『狐借虎威』 虎の威を借る狐。

現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとするご都合主義。

 

[朱子学]

朱子学は宋代に生まれた新しい儒教(儒学)思想で南宋の朱子が作った。

朝鮮朱子学・・・歪んだ朝鮮の儒学。

支配階級の為の実践的な思想で、身分制度の尊重と君主に従うことを説いている。

迎恩門にて清の冊封使阿克敦を恭しく迎える第21代朝鮮国王英祖  左側一団の真ん中赤い衣服の深くお辞儀をしているのが朝鮮国王英祖、中央右一団の青い衣服で輿に乗っているのが清の冊封使阿克敦。
白衣民族朝鮮 李氏朝鮮王族の外出。
白衣民族朝鮮 身分の高い家の女性
白衣民族朝鮮 朝鮮伝統家屋での喫煙と会話を楽しむひと時

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 李氏朝鮮の身分制度

 

[両班ヤンバン] 約7%

文班、武班:科挙によって登用される文武の高い官職や儒教の学者をだした一族。両班である事はその血統によって保証され、自分の一族が由緒正しい身分の出であることを証明する族譜(家系図・身分証明)が大変重んじられた。17世紀、没落両班から族譜を高値で買ったり盗んだりして両班になる者が現れ、李朝末期(1858年)には人口の48.6%戸数で70.2%に両班が急増した。

 

[良人ヤンイン] 約50%

自由民で納税、国役の義務を負う。

・中人(チユンイン) 下級役人、技術官など。

・常民(サンミン) 農民、商人、職人

 

[賎人チョニン] 約43%

非自由民、李朝八賤

・仏教の僧侶(スンリョ) 李氏朝鮮時代は儒教が国教。仏僧は賎民階級になり都の漢陽に入ることを禁止された。

・胥吏(ショリ) 庶民でありながらも役人の仕事をする者。俸禄を支給されなかったので、不正や収奪が横行。

・女官(にょかん) 宮中において様々な職務に従事。

・妓生(キーセン) 諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕する女。

・医女(ウイニョ) 両班や王族に属する女性を診察する婢身分の医師。芸道にも通じ、末期には妓生(売春婦)と同一。

・男寺党(ナムサダン) 朝鮮半島の伝統的旅芸人。男色を集団の絆とした組織で売春によって収入を得ていた。

・奴婢(ノビ) 奴婢には公奴婢と私奴婢があり、公奴婢は王宮や官庁での仕事に従事。私奴婢は両班の私有財産。賎民の中で奴婢が一番多く公私それぞれ40~50万人存在。無償で使役や売春をさせられる為、奴隷に近い。

・白丁(ペクチョン) 最下層とされ一般の村に住めず良民とは結婚できなかった。主に食肉加工を生業とした。

白衣民族  妓生(きしょう、기생、キーセン)
白衣民族  燃料売り 背後は藁屋根と泥土壁の伝統家屋、さらに後がお決まりの禿山。
白衣民族  水売り
白衣民族  履物売り

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李氏朝鮮の仏教弾圧

 

李氏朝鮮時代に入ると、一転して儒教が国教となったため、仏教は徹底的に弾圧された。

初期には王族の保護を受けたが、士林派の集権で弾圧が強化された。

僧は都の漢陽に入ることを禁止された上、賎民階級に身分を落とされた。

また、全国に1万以上もあった寺院は、国家的に保護を受けるべきものが242寺に限定され、その他の寺院は所有地と奴卑を没収され、また多くが破壊された。

さらに、第3代太宗の時代の1407年(太宗7年)には、12宗が7宗88寺院(曹渓宗・天台宗・摠南宗・華厳宗・慈恩宗・中神宗・始興宗)に、次の世宗の治世(世宗6年・1424年)にはその7宗派も曹渓宗・天台宗・摠南宗を統合して禅宗、華厳宗・慈恩宗・中神宗・始興宗を統合して教宗と、2宗派にまとめられた。

88の寺院は、禅宗18寺院・教宗18寺院の計36寺院を残し廃寺となり、この時期に朝鮮半島の仏教は著しく衰退した。

成宗(在位1469年-1494年)・燕山君(在位1494年-1506年)・中宗(在位1506年-1544年)の時代、仏教はさらに壊滅的打撃を受けた。

成宗は1492年、僧侶の度牒制度と出家を禁止した。

燕山君は2宗派の本山である興天寺(禅宗の本山)と興徳寺(教宗の本山)を1504年に廃寺にし、そのほかの寺院も遊興施設にかえた。

中宗は1507年に科挙の僧科を廃止し、また仏像を破壊させた。

 

(Yahooブログ 対馬で盗難の仏像、韓国の寺に所有権=裁判所が引き渡し命令 より抜粋)

李氏朝鮮時代初期に破壊された仏像群
李氏朝鮮時代初期に破壊された仏像
李氏朝鮮時代初期に破壊された仏像群
李氏朝鮮時代初期に破壊された仏像群

(補)朝鮮半島 『恨』ハン の歴史

 

学校教育の成果

 

『日帝が韓国の「仏国寺」を破壊した

 

なぜ韓国朝鮮では幼い子供達にこの様な嘘を教えるのか

史実は朝鮮人が「崇儒廃仏」(儒教を崇め仏教を排斥する)により破壊した寺を日帝がお金を使って保存に努めたので辛うじて残り、現在ユネスコ世界遺産に登録されている。

 

韓国朝鮮では文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)、韓国朝鮮の言い方は壬辰・丁酉倭乱の時に日本の秀吉軍が仏像を破壊し尽くしたと子供達に教え伝えている。

文禄の役(1592~1593年)

慶長の役(1597~1598年)

文禄慶長の役では寺内での戦いで焼失した物は有るが既に寺や仏像は破壊し尽くされていた。

 

韓国朝鮮の子供

韓国朝鮮の子供達は小さい時から日本が韓国朝鮮の文化を破壊した、日本が奪った等と嘘の歴史を家庭や学校で教えられて育つ。

それで歴史的な文化財が多く残る日本が妬ましいのか羨ましいのか、それとも恨みの所為か、日本の城郭・神社・仏閣等の文化財を盗み壊すために来日し、それなりに実行して自国に帰り周りの者に自慢話をする。

それを聞いた者達も褒めそやす。なかには逮捕され裁判によって懲役になる者もいる。この様な韓国朝鮮人の愚かな行いは明らかに教育が原因。敢て犯罪者を育む国家が世界の何処にあろうか。しかしながら韓国大統領自ら世界中に嘘を撒き散らしている現状では手のほどこしようが無い。韓国司法も「国民情緒法」に狂っている。否、ニ千年隷属の性根、韓国朝鮮人の人間性が全て。

仏国寺 李氏朝鮮時代  本来の姿  
李氏朝鮮時代 弾圧され荒廃した仏国寺 本来の姿
日本統治時代 日本の資金によって修復された仏国寺 (復元)  現在韓国朝鮮のユネスコ世界遺産登録されている物の最初の一つ。
「捏造韓国朝鮮」  ユネスコ世界遺産登録されている現在の仏国寺  

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韓国朝鮮人のルーツ

 

現在の韓国朝鮮人のルーツは新羅・百済・高句麗人ではない

現韓国朝鮮人→李氏朝鮮人→高麗人→エベンキ・ワイ族

 

〇ソウル大医大イ・ホンギュ教授は「韓国人は北方モンゴロイドのエベンキ族と南方原住民の血が混ざって形成された民族」と主張。


韓国朝鮮人の祖エベンキ・ワイ族は酷寒の地に住む遊牧民。

衛生観念や貞操観念が非常に乏しい特異な民族。

ちなみにエベンキ・ワイ族の住むサハ共和国はロシアのハバロフスクの上、オホーツク海に隣接したマガダンの西側からウラル山脈東側まで東西、南北の長さが各々2千kmになる。

 

エベンキ・ワイ族と高麗系朝鮮人の顔の特徴

頬(ほほ)骨・鰓(えら)骨が尖り左右に張る。耳たぶが無く耳垢が乾性、目が細く一重で吊り上げる。鼻筋が細くて長い。顔全体のふっくら感が無く、頬が広くノッペリしている。顔表面の色つやが乏しく、ただ変に白っぽい。合致する個所が多いほど血が濃厚。

 

〇韓国外国語大学ロシア語科のカン・トクス教授が朝鮮人のルーツを研究

  

「アリラン・スーリ」はエベンキ・ワイ族の代表的な歌。

歌詞の意味は、遠くの人々を懐かしむ「アリラン(迎える)・スーリ(感じとる)」。 朝鮮の歌アリランには「アーリアリラン、スールスーリラン」とそっくりな言葉が続く。節回しも酷似している。 韓国人はアリランという言葉、スーリも意味不明と言ってるが、エベンキの言葉では意味はハッキリしている。

  

朝鮮語とエベンキ・ワイ族語

エベンキ語のデョルは韓国語のドルで「石」
デュルはドゥルで「2(二)」
デュル-レはドゥル-レで「周り」
ムはムルで「水」
アミはアビで「父」
エニはエミで「母」
アシはアッシで「若い女性(アガシ)」
アキはアチで「おじさん(アジョシ)」
べイェはべで「輩」
~ンイは~ウイで「~の」を意味する。

「チャンスン」に手を合わせる白衣民族朝鮮の子供達  エベンキ・ワイ族のトーテムポールに非常によく似た韓国朝鮮名・チャンスンに手を合わせて願いごと。 他に杭の先に鳥を付けた韓国名ソッテがエベンキ・ワイ族にも有る。 顔だけで無くアリランと言う歌や互いの言葉等の文化が大変良く似ている。 
エベンキ・ワイ族 トーテムポール
「ソッテ」  韓国朝鮮 鳥を付けた長い杭 
エベンキ・ワイ族 鳥を付けた長い杭

(補)朝鮮半島 『恨』ハン の歴史

 

半島の文化と思想

 

朝鮮民族の性根

 

『恨』ハン 

 

恨(こん) 憎いやつだと思う、残念に思う、不平に思う、うらむ、うらめしい、くやしい    明解漢和辞典

 

文化を捏造する韓国朝鮮人

 

2000年隷属し続けた結果、固有の文化を育成せず、他国から剽窃(パクリ)した物と他国にも無い、人の道にもとる文化とは言い難いものだけが残った。 

他国の文化は決して尊重せず迷うことなく棄損する。平然と他国の文化をパクリ恥ずかしげも無く自国の文化、自国が起源と主張する。他から指摘をされたら、更に嘘でカバーする。己の醜い姿には目を背け、更にパクった相手を貶め己の悪を転嫁する。決して己を正そうとはしない。平然と他国の歴史までパクリ捏造する。裏切りをも厭わず「賊喊捉賊 」を平気で行う。しかし何故かプライド(自尊心)だけは異常に高い。上は大統領から下は小学生・幼児まで、心の内に恥の概念は全く無い世界に稀な民族。

 

リセット

 

宗主国 中華国 (現中国)

韓国朝鮮の長年の宗主国である中華国では王朝や支配者が変わる度にそれまでの文化を徹底的に破壊しリセットした。故に、現中国には文化財がほとんど残されていない。

隷属国 韓国朝鮮 

強い者に媚びへつらう朝鮮半島人は宗主国であった中華国と同じく宗主国が変わる度毎、それまでの文化を廃棄しリセット、新宗主国の文化を取り入れた(事大主義)。

若い韓国朝鮮人 エベンキ・ワイ族の末裔達   
エベンキ・ワイ族の女性 高麗人のルーツがエベンキ・ワイ族と言われる。     
白衣民族朝鮮 朝鮮人女性  笹竹の葉の様な細く吊り上がった目 左右に広がり尖った頬と鰓(エラ)骨。  韓国朝鮮人はエベンキ・ワイ族の末裔とソウル大医大イ・ホンギュ教授が主張。
韓国朝鮮人 エベンキ・ワイ族の末裔  韓国朝鮮人が顔の整形に必死なわけ 彼等は寒い地方に住んでいたことから、硬く凍った肉をかみ砕くために、顎(あご)と頬(ほほ)が発達し頬骨・鰓(えら)骨が尖り左右に張る。又、酷い寒風の影響か目と鼻が小さい。  

(補)朝鮮半島 『恨』ハン の歴史

 

朝鮮通信使で知る朝鮮人の本性

 

特異な性根『恨ハン』ここにも存在

 

朝鮮通信使    

 

「日東壮遊歌」朝鮮通信使 金仁謙著
〇1764年1月22日 大阪

100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。 大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、 銅の屋根で、黄金の内装である。 この贅沢さは異常だ。 都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。 中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。 世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。 ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。 北京を見た通訳が通信使にいるが「北京の繁栄も大阪には負ける」 と言っている。 穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。 そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。 嘆かわしく、恨めしい。

〇1764年1月28日 京都
街の繁栄では大阪には及ばない。 しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。 山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。 この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。 悔しい。 「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。 悔しい。 この犬のような倭人を全て掃討したい。 この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。 

〇1764年2月3日 名古屋
街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。 凄い。 自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。 中原(中国の中心地)にも無い風景だ。 朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。 人々の美しさも最高だ。 特に女性が美しい。 美しすぎる。 あれが人間だろうか? 「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、 美しさを失うだろう。

帰路にて
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。 我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、 頭を左右に必死に動かしている。 

〇1764年2月16日 江戸(東京)
左側には家が連なり、右側には海が広がっている。 山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。 楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船…。 全てが大阪や京都より三倍は優っている。 この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。 女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。

大阪城お堀端  写っているのは、二の丸二番櫓と玉造門、巽櫓。 昭和20年の大阪大空襲などの戦災により堀や石垣は残ったが建物の二番櫓、玉造門、巽櫓は焼失。
京都御所 御学問所  和歌の会など学芸に関する行事のほか,臣下との対面にも用いられた。
名古屋城  築城 慶長14年(1609年) 別名・金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)  徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられた。 第二次世界大戦末期(1945年)アメリカ軍の名古屋大空襲によって大部分を焼失。戦後に天守などが外観復元される。
『愛宕山から見た江戸のパノラマ』 撮影者:フェリーチェ・ベアト 1865-1866頃 江戸(現東京)の風景  1634年2月25日この山頂に有る愛宕神社境内の梅の枝を讃岐丸亀藩の家臣である曲垣平九郎(まがき へいくろう)が初めて馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功、これにより出世した。以降この急な石段は「出世の石段」と呼ばれている

(補)朝鮮半島 『恨』ハン の歴史

 

朝鮮通信使の来歴

1607年、1617年、1624年、1636年1643年、1655年、1682年、1711年1719年、1748年、1764年、1811年

 

朝鮮通信使  続き

〇大阪港の感想 
「その昔、桜船で下る王濬(おうしゅん)が益州を称えた詩があるがここに比べてみれば間違いなく見劣りするであろう」 「倭の十一隻の金の桜船が命を受けて迎えに来ていた・・・その豪華絢爛 万古に例を見ない見事さである」

〇大阪の感想 
「三神山の金闕銀台とは まことこの地のことであろう」 「人家が塀や軒をつらね その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である」 「我が国の都城の内は実際には一里に及ばない・・・(大阪は)ほぼ十里と言われる土地は全て利用され・・・」 「北京を見たという訳官が一行に加わっているが かの中原の壮麗さもこの地には及ばないという」

〇淀城の水汲み水車の感想 
「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」

〇京都にて 
「人々の富める様は大阪には及ばないが都の西から東までの距離は三里に及ぶという」 「惜しんで余りあることは この豊かな金城湯池が 倭人の所有するところとなり 帝だ皇だと称し 子々孫々に伝えられていることである この犬にも等しい輩を 皆ことごとく掃討し四百里六十州を 朝鮮の国土とし 朝鮮王の徳をもって 礼節の国にしたいものだ」

〇名古屋の感想 
「山川広闊にして 人口の多さ 田地の肥沃 家々の贅沢なつくり 遠路随一といえる 中原にも見あたらないであろう 朝鮮の三京も大層立派であるが この地に比べれば寂しい限りである」

〇江戸の感想 
「楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい 男女の華やかさ 城郭の整然たる様 橋や船にいたるまで 大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える」

 

朝鮮通信使(1764)の実態

 

通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりといった乱暴狼藉を働くなど盗賊程の行儀の、礼を知らぬ者達であった。江戸からの帰途、大阪は長浜で鈴木伝蔵という対馬藩の通詞(通訳)が余りに酷い無礼をはたらいた通信使の都訓導(中級官人)崔天宗を槍で刺し殺す事件まで起きている。 

 

「京都にて」の「この犬にも等しい輩を・・・」とは現代の韓国朝鮮人と全く同じ言。これが他国隷属ニ千年による醜く歪んだ朝鮮人性根『恨(ハン・こん)』。

『恨ハン・こん』 第26代国王高宗 1884年 パーシヴァル・ローウェル撮影  1905年(明治38年)の冬、答礼大使として日本に赴き、その報告する皇族・李戴完に 「日本の文化はわが国から渡ったもの。三韓時代に王仁(わに)が文学と書籍を伝えた歴史がある。わが国の文物がすべて日本に劣るという、これまでの報告は皆嘘である。何でも彼(かん)でも日本が優れているわけはない」 と返す。[探検コム 伊藤博文と韓国政治]より抜粋。
朝鮮通信使  江戸城内(三の丸)で陶器や虎の皮等の礼単(進物)を準備する朝鮮通信使(江戸図屏風より) 江戸期には12回の来歴有り。 目的は朝鮮征伐 文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)の朝鮮人捕虜の返還交渉や徳川将軍家の世継ぎ誕生祝賀、一番多いのが新将軍襲封祝賀。 (ウィキペディア朝鮮通信使より)
朝鮮通信使と鶏 「朝鮮人来聘記」 京都大学 所蔵  1748年(延享5)来日した朝鮮通信使が大阪・淀藩領の船着場から上陸して町の中をうろつき、通信使一行が町人が飼っているニワトリを盗んで逃げようとし、日本人とけんかになった。  このころ淀藩城下では、『猫は朝鮮通信使の大好物、町中の猫を彼らがつかまえて料理して食べるので、町から猫がいなくなった』 という噂がたっていた。
「辻子谷(ずしだに)」の水車 東大阪市上石切町 1985年撮影  江戸時代から製薬に水車を利用 明治期以降は建物内部に水を引込み水車を回す。 水車は電動機に比べて作業効率は劣るが処理熱で香りや薬効を損なうことなく高速機械では作れない超微粉末が製造できるため製薬に適していた。 日本は初期の朝鮮通信使に水車(揚水)の造り方を教えたが朝鮮は最後まで作ることが出来なかった。
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